終わらない鎮魂歌を歌おう――瑠璃の夏――
原作:未乃タイキ『終わらない鎮魂歌を歌おう』 著:litoruman
■このお話の登場人物■
・死神第21087号(瑠璃)
見た目は10代前半で、いつも真っ白な装束を着ている。事故死の後に、自分を自己顕示の為の道具としか見ていなかった母親に復讐するため、死神になる。仕事の腕はいいのだが、当初は結果が全て、それ以外は不要という合理的な考えを持っていた。耕太との仕事ではその点で対立することもあったが、最後にはその考えに変化もあったようだ。今は、一人前の死神になるために各地で研修をしながら仕事をこなしている。
・黒兵衛(くろべえ)
このお話で死神第21087号が担当した客。
【2010年7月20日】
目が覚めた?
ごきげんよう。「はじめまして」の方がいいかしら。
残念だけれど、あなたはもう死んでしまって周りの人たちには見えていないの。
わかるかしら? そう、あなたは、丁度死後1200秒を経過したところ。
このクリップボードを見て頂戴。これが、あなたの死因と死亡時刻。自分の名前と年齢は正しいかしら。
――そう、ならよかった。
これで理解した?
私は、あなたを――正確には、魂だけの存在となったあなたをあの世へ送るためにこうして現れた存在。
――察しがいいのね。そう、私は世間一般で死神と呼ばれる存在。
私の名前は、死神第21087号。
もちろん、これは本名ではないわ。「死神21087号」が気に入らないというのなら、「瑠璃」と呼んでも構わない。これは、私の生前の名前。
これは、誰にでも聞いている質問だけれど、あなたは生前やりのこしたことはある? 属に未練ともよばれるモノだけれど、もし未練が残っているのなら、可能な範囲で叶える手伝いをすることはできる。それが、私が所属する会社の主な業務のもう一つの側面。
魂を救う℃磨Aそれが私の仕事よ。
って、あなた、聞いてるの?
――えっ、話が唐突過ぎて頭が混乱している?
しっかりしなさい、それでもこれだけの年月を生きてきたの? あなたの生きた時間を秒に変換したら、これだけの数字になるの。これだけの時間、あなたは、あなたのまわりにいた人たちと過ごしてきたの。それだけの人生を送ってきたの。だから、しっかりしなさい。しっかりと、自分の足で立って、そして歩きだしなさい、来世に向かって。
――か、顔が赤い? き、気のせい、気のせいよ。夕日に照らされてそう見えるだけ。それより、顔をあげなさい。そして、私の話にだまって耳を傾けなさい。
いい? これから私がかつて体験した話を聞かせてあげる。だから、私が話している間に、自分の置かれた状況と気持ちを整理しておきなさい。
コホン、では、話すわ。あの、ちょっと不思議で、ちょっと大変な、ある、夏の日のことを……。
【20XX年8月17日】
その日、私は朝から仕事だった。
まだ日が昇らない時間、いつものようにクリップボードとペンを持って、とある民家の屋根に腰を下ろす。表札には、瀬古内(せこうち)と書かれていた。
雲のように真っ白な装束の、おしりの部分が汚れてしまうけれど、そんなことを気にしていたら死神業務がつとまらない。とある死神は、上司による折檻(上司は可愛がりと言っていたが)によって土埃まみれ、時には泥まみれになっていることもあるのだから。
夜明けの空は、少しだけ暗くて、それでも透き通るような青さがあって、私はこの時間がとても好きだった。
それは、世界がとても静かで、どこまでも澄んでいて、そのなかで私は、自分自身を感じることができた。
ぼんやりと、雲が流れていく空を見上げる。
「ひんやりとした屋根って、なんだか気持ちいい」
「そうじゃの、わしもここがお気に入りじゃて」
独り言に返事があるとは思わなかった。
私はとっさに声がした方に目を遣る。
果たして、そこには本日のお客様の姿があった。
「なんじゃ、鳩が豆鉄砲食らったような顔をして」
私はこの時、どんな顔をしていたのだろうか。
恐らく、滑稽なんて簡単な言葉じゃ言い表せないくらい、マヌケな表情だったに違いない。
「あ、あなたが……黒兵衛……さん、なの?」
「いかにも。わしが正真正銘の黒兵衛じゃが」
その、古風な話口調がますます私を混乱させる。
「その話し方は?」
なんとか、困惑を飲みこんで話を続ける。
「ああ、これは昔からじゃからの。まあ、わしの話相手なんぞ、普段からあまりおらんかったがの」
ハッハッハ、と大口を開けて黒兵衛さんは笑った。微妙に回答になってないような気がしたが、業務に差し支えないのでよしとしよう。あとで本人に聞いてもいいし、必要とあれば会社に赴けば必然的に解消される疑問だ。
そしてどうやらこの黒兵衛さん、ひょうきんな性格らしいことがわかる。
黒兵衛さんは私の方まで、しっかりとした足取りで歩いてくると、私の隣に場所を陣取って、夜明け前の空に視線を投げていた。私は、黒兵衛さんに気付かれないように、ごく自然な動作で手元のクリップボードと、隣にいる黒兵衛さんを見比べる。
死亡年齢、98歳。
死因、老衰。
確かに、クリップボードにはこう書いてあった。だが、なんだろうかこのどっしりとして存在感は。まるで、自分が死んだことすらわかっていないような、あるいは、死という現象すら全て受け入れているかのような、そんな態度。身長は私よりも小さいというのに、態度は私の何倍もあるようだ。
と、そこで私は自分が仕事を忘れかけていたことを思い出して、慌てていつもの定型句を紡ぐ。
「えっ……と、黒兵衛さん、あなたは既に死んでしまって、もうこの世には――むぐっ」
しかし、その途中で黒兵衛さんに口をふさがれてしまう。
「わしもそのくらいわかっとる。じゃから、改めて言わんでくれ」
「あ……」
気丈に振る舞っていたと思っていたが、実はそうではなかった。死という避けられない道に、彼はどっしりと構えることで堪えていたのだ。
黒兵衛さんの表情から、私はそう感じ取った。
「じゃからの、嬢ちゃん。今日はこのじいさんと一日遊んでくれんかの?」
ガッハッハ、と大口を開けて笑いだす黒兵衛さん。
訂正、このお客様は死を乗り越えて全てを受け入れたわけでもなく、死を迎えて悲観していたわけでもなかったのだ。
これはただの、楽天家。
楽観的に物事をとらえている、ある意味幸せなヒト。
「はぁ……」
呆れかえった私はもう、それにため息をつくことくらいしかできなかった。
黒兵衛さんは、そんな私を見て、何を勘違いしたのか、
「これ嬢ちゃん、若い身空でため息なんぞついちゃいかんぞ。幸せが逃げちまうわ。そんなんじゃ、幸せな人生ももったいないじゃろ?」
おっと、嬢ちゃんもわしと同じくもう死んでおったかの。いやぁ忘れとった忘れとった、じいさんこりゃ一本取られたぞ。なんて言って、またゲラゲラと笑いだす。
「遊ぶ、って、一体その身体で何をするつもり。もう死んでいる以上、現世に干渉することなんてできないの? それと、嬢ちゃんはやめ――いたっ。な、何するの!?」
いきなり頭をはたかれて、私は素っ頓狂な声を上げた。
予想だにしない黒兵衛さんの行動は、私のペースを崩して乱してしまう。
ただでさえイレギュラーな仕事だというのに、なんだろう、それ以上の「やりにくさ」をこの時点で私は覚えていた。
「年寄りに対する接し方がなっとらん。年上には敬意を持って接していかんとだめじゃ。それと、わしみたいな老人は大切にせんといかんぞ。それもわからんようなら嬢ちゃんはいつまでも嬢ちゃんじゃぞ。まったく、近頃の若いもんはこれだから……」
黒兵衛さんはぶつぶつと何か言っているようだが、その表情から怒りは伺えない。むしろ、なぜかこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
しかし、私の仕事はあくまで魂の救済。老人介護ではないのだ。
よし、ここはきっちりと言わなくてはならない。私だって、ボランティアでやっているのではないことを、このお客様にはわかって貰わなくてはならない。自分のペースを乱さないことも、プロの条件だ。
「お言葉ですが、この世にやり残したことがないのであればあの世へ行くことをお勧めしますが。このまま現世にとどまっていも、何もできませんよ?」
要点を短く、それでいてはっきりと伝える。
大事なのは、感情論になってはいけないということだ。感情をぶつけ合ってしまっては、建設的な話し合いなどできない。それが交渉の基本であり全てなのだ。
「何をいっとるんじゃ。嬢ちゃん、遊びというのは1人でもできるくらいに簡単な物じゃぞ。まして、今ここにはわしと嬢ちゃんの2人がいる。その上、わしも嬢ちゃんも他人には見えないというのだから好都合じゃ」
このヒトは私の話が聞こえていないんじゃないだろうか。
もう、そうとすら思えてきた。それほどまでに、私たちの会話は交わらない。
「ですから、未練がないのなら――」
「さあ、そうと決まれば話は早い。嬢ちゃん、わしについてくるがいい!」
そう言って、ひょいっと屋根の上から飛び降りて、夜明けの街へと走りだす黒兵衛さん。
とっさのことで、私は一瞬思考が停止してしまっていた。
「ちょ、ちょっと、待って……ま、待ちなさい!」
慌てて追いかけようと私も屋根から飛び降りつつ、黒兵衛さんが走って行った方を見ると、既に黒兵衛さんの姿は点くらいに小さくなっていた。
「はぁ、はぁ、こ、ここは……」
そこまで言って、私は一度息を飲み込んだ。
何しろ、ここまで約1キロの距離をほぼ全力で飛んできたからだ。
飛ぶ、という行為は走るより何倍も速いが、その代わりに走るより何倍も疲れる。
「ファミレス、というやつじゃな。しかし嬢ちゃん、そんなに息を切らしてどうしたんじゃ一体」
「あなた、の、せい、で、しょ……」
けろっとしている黒兵衛さんの表情が、疲れと怒りを増幅させる。
私は、閑散としている店内、その窓際の席に座って呼吸を整える。冷房が、ほてった体に当たって涼しい。
私たちは、何故か街の中にあるレストランに来ていた。
全国にチェーン展開している、ごく普通のファミレス。元々この街に住んでいたので、私も何度か来たことがある。お父さんが仕事で遅かったので、お母さんと2人で来ることが多かった。
24時間営業が売りとなっているが、さすがに夜明け前のこの時間では利用客もほとんどいなく、大量の書類を枕に机に突っ伏している人や、タバコを灰皿にあふれんばかりに盛り付けてパソコンと向き合っている人がいるくらい。話し声は店の厨房の方からしか聞こえなく、店内は静かなBGMが流れているだけだった。
「いやぁ、わしはこのファミレスっちゅうところに一度来てみたくての。ほれ、こういう店は若い連中が来るところじゃて、わしみたいなモンはなかなか来ることもないじゃろ。せっかくこうして誰にも見えてないんじゃ、こういう場所を楽しまんとな」
黒兵衛さんは反対側に座り、そう言った。
私は言葉にはしなかったが、若いとか年寄りとかそういう問題じゃない。
「こんなところにきて、どうするつもりだったんですか。料理は頼めませんし、物に触れることも基本的には禁止されているので水ひとつ飲めませんよ?」
すると、黒兵衛さんはガッハッハ、とまた大笑いした。
「嬢ちゃん、発想が貧困じゃの。わしは言ったじゃろ。わしらは目に見えん。ということは、普段入れない場所にも入ることができるということじゃろ?」
普段入れない場所、と聞いて私は厨房の方を何気なく見た。
なるほどたしかに、レストランの中でも厨房は、客の目に入らないように壁の向こうになっていた。
おいしいハンバーグや、甘いパフェ、湯気の立ったスープ、頼んだものがなんでも出てくる、まるでそこは魔法のような空間。幼いころ、母親と来た時には厨房をのぞいてみたくてしかたなかった。あの、魔法のような部屋の中が一体どんなふうになっているか、想像しただけでワクワクした。
「どうじゃ、あの中を探検してみたくなったじゃろ?」
子どものように目をキラキラさせて、黒兵衛さんは私に問いかける。
一瞬、その目に吸い寄せられそうになった私だが、
「いいえ、そんなことをしている暇はありません」
仕事であることを思い出し、そう告げた。決して、残念だと思ったわけでは、無い。
黒兵衛さんは、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべて、その顔を私に近づける。
「そうかそうか、嬢ちゃんは行かんのか。じゃあ、わし一人で探検するとしようかの。きっと、わしの身体がすっぽり入ってしまうような大きな冷蔵庫や、嬢ちゃんには扱えんような調理器具がずらりとならんでるんじゃろうなぁ。いやぁ、実に残念。じゃが、嬢ちゃんが行きたくないというのなら、わしかて強制はせんよ。何しろ、嬢ちゃんはマジメな死神さんじゃからのぅ」
そう言って、すたすたと厨房の方へ消えていってしまった。
大きな冷蔵庫や、見たこともないような調理器具。
壁一枚向こう側に、未知の世界が、私の知らなかった、かつて夢見たような世界が待っている。
「待ちなさい。あなたがこのままどこかへ逃げ出さないように、私は見張っておく必要があるわ」
仕方ないじゃない、だって、このまま逃げられたら仕事にならないんだもの。
そう、これは業務をこなすうえで仕方ないことだ。クライアントの望む死後の体験をサポートしつつ、しっかりと迷いなく魂を救うことが、死神の役目なのだから。
私は、席を立って黒兵衛さんを追いかけた。
厨房は、銀色の世界だった。
業務用の冷蔵庫や冷凍庫と思わしき巨大な箱が、ズラリと並んでいた。
当然、その中を開けることはできないが、その中にはきっとハンバーグやステーキやスパゲティの材料がぎっしり入っているに違いない。なんだか、それが魔法の箱のように見えて、私は食べてもいないオムライスを食べたような気分になった。
流し台のそばには、見慣れた食器やナイフ、フォーク、スプーンなどがぎっしりと納められていた。
こんなにたくさんの皿があるということは、これだけたくさんの人が利用するのだ。ファミレスという、普段は何気なく利用している空間なのに、ちょっと裏側を垣間見ただけで、まるで素敵な空間を作り出せる魔法の施設みたいに思えた。
「嬢ちゃん、楽しんどるかの?」
背後からかかった黒兵衛さんの声で、はたと私は仕事を思い出す。
私としたことが、すっかり仕事を忘れてしまっていた。
「な、なんのことですか。私は、黒兵衛さん、あなたのことが心配できているだけです。」
「嬢ちゃんがそういうのなら、それを信じるとするかの。それにしても、ファミレスちゅうところは、なんとまぁ大層なところじゃ。わしの家なんかよりずっと広い台所じゃ」
黒兵衛さんの言うとおりだ。こんな広い厨房が、食事時にはおいしいにおいでいっぱいになるのかと思うと、私はなんだか嬉しくなって、つい顔がほころんでしまいそうになる。
「もう、十分堪能できましたか」
「そうじゃの。いいものを見させてもらった」
「では、そろそろ」
「次へ行くとするかの」
「そう、次へ……えっ?」
次、と言ったか。
私は自分の耳を疑った。
「次は次じゃよ。まさか嬢ちゃん、これだけで終わると思っとらんじゃろうな?」
ニヤッと笑って、黒兵衛さんは店の外にするりと壁を抜けて出て行った。
「ま、待ちなさい。こら――!」
慌てて私も外に出ると、日はすっかり昇って、一日が始まっているのが車の通りを見ていてもわかる。私は、視界をぐるっと一周させる。
――いた。
「もう、どうしてこうも勝手な事をするの!」
心の中のどこかで、とくん、と高鳴るものを感じながら、またしてもゴマ粒くらいの大きさになっている黒兵衛さんを、私は全力で追いかけた。
それから、私は黒兵衛さんに散々振りまわされた。
結論から言えば、不甲斐ない話だが、私は行く先々で「探検」と称した黒兵衛さんの暴走を一緒になって楽しんでしまっていた。
デパートには、婦人服売り場で見たこともないようなゼロの数がついた洋服がたくさん売っていた。黒兵衛さんと一緒になってその値段に驚いたり、試着室に入って鏡に映らないという事実に、一緒になって馬鹿みたいに驚き、声を出して笑った。屋上では、たまたま開催していた特撮ヒーローのショーも子どもたちにまじって(もちろん見えてはいないのだが)見た。
電車にも乗った。ずっと街から出ることなく生前は暮らしていた私にとって、電車という乗り物は全てが新鮮だった。ローカル線のガタガタと揺れる車内は、平日ということもあって人はまばらにしか乗っておらず、私は窓を開けて入りこんでくる冷たい風をめいっぱい身体に受けた。流れていく景色を窓から見ていると、そこだけ額縁に入った絵が次々に移り変わっていくようだった。その景色を、世界の中で自分1人が独占していると思うと、それがまた何にも変えがたい幸せだった。
また、黒兵衛さんは近所の公園へも私を引っ張り回した。私も知っている、ちょっと大きな公園だったのだが、黒兵衛さんは私の知らない公園の隠れたスポットをたくさん知っていた。生垣の下、私の足元くらいの場所にはぽっかりと抜けられるような空間があって、そこを抜けると商店街への近道だった。私が尋ねると、黒兵衛さんはガッハッハ、と笑うだけだった。
知っている場所が、黒兵衛さんと一緒だとまるで違った世界に来たかのように変わっていく。その感覚が、行く先々で私に飛び込んできて、それがすごく心地よくて、すこしだけこそばゆくて――とても、楽しくて。
「嬢ちゃん、楽しんどるかい?」
「はい、とても――」
完全に、黒兵衛さんには負かされた。
私たちは、隣町にある遊園地に来ていた。
地元では、それなりに有名で、それでいて都会の大きな遊園地よりリーズナブルな値段で遊べるので、学生同士のデートスポットになっているという話は、何故か黒兵衛さんが知っていた。その噂通り、私と黒兵衛さんが乗っている観覧車から見下ろした園内には、平日にも関わらず学校帰りと思わしき学生服姿が多く見受けられた。
黒兵衛さんと出逢った時には薄暗かった空は、焼けるような夕焼け空に変わっている。観覧車のガラス越しに差しこんだ陽の光が、眩しいけれど、とても気持ちいい。
「実は、私あまり他人と話したり人が多い場所に行ったりするのが苦手だったんです」
知らず知らずのうちに、私は口を開いていた。
一日一緒にいて思ったことだが、黒兵衛さんに隠し事は通じないのだ。
「会社に入って、色々なところで研修をして、死神(ひと)や死人(おきゃくさま)とのコミュニケーションは増えたし、人ごみの中を走りまわることにも慣れてきました。でも、まだ、人と人の間の中で生きていくことがどこか怖かったんです」
溜めこんでいた黒い物が、次から次へとこぼれ出るのを止められない。それを感じながらも、私は続ける。
「集団の中で、自分という個性が殺されてしまうような錯覚に襲われたり、裏切りや、逆境が私をいつ襲ってくるかわからないという不安に押しつぶされそうになったり」
そのなかでどうもがいていいかわからなくて、泣きそうになる時もあった。
だけど、私は泣かない。泣いてはいけない。泣いたって、いい結果は付いてこないから。
泣く暇があったら、結果を求めて努力した方がいい。最良の結果こそが、私を彩ってくれるのだから。これは、誰にも譲れない、私だけのウタだから。
「そう思っていたのに、黒兵衛さんと一日すごしたことで、ちょっとだけ、誰かと一緒に生きていく自信がついたような気がします」
はっきりと、私は告げた。勿論、他の死神から見たらまだまだ未熟モノな私ではあるが、それでも、今日という一日は私にとって、宝物のような一日になった。
私は、ふと黒兵衛さんに尋ねる。
「黒兵衛さんは、どうしてこんなに『楽しむ』事を知っているんですか?」
常に明るい全力で行く先々に待ち受けている物を楽しんでいる黒兵衛さんを見ていると忘れてしまいそうだが、私たちは現世とは一線を画したところに立っているのだ。楽しいことを、誰かと共有できることも、ないのだ。それなのに、どうしてこんなにも『楽しむ』事を知っているのだろうか。それは、年齢だけで物語れるものではない。
「そんなの、簡単じゃよ」
黒兵衛さんは、私の疑問にたった一言で答えた。その時の黒兵衛さんは、本当にきれいな目をしていた。
「世の中みんな、楽しいことばかりなんじゃからな」
「楽しいこと……ばかり」
「一見すると、辛いことや不条理な事があるかもしれん。じゃがの嬢ちゃん、そのお陰で何か得るものがあるかもしれない。失敗がなければなかった出会いや、歩まなかった道があるかもしれん。上手く行った道には確かに楽しいことは待っとるじゃろ。じゃが、もしかしたら別の道には、その楽しさとはまた別の楽しさが待っとるかもしれん。そう考えたら、生きるのがワクワクしてくるじゃろ?」
ガッハッハ、と黒兵衛さんは笑う。
「嬢ちゃんが心配しとることも、当然のこと。じゃから、わしはそれをやめろとは言わん。それは、嬢ちゃんの選択じゃからな。その考えは大事にせんといかんな。じゃがの、嬢ちゃんがこんなじいさんと一日一緒にいて、それを楽しいと思ってくれたこともまた事実じゃ。"たまたま"わしが死んで"たまたま"嬢ちゃんがわしの死神として訪れた。こんな"たまたま"が重なって嬢ちゃんはまたひとつこの街の楽しさに気付いた。こんな偶然だらけなんじゃよ人生なんて。楽しくて仕方ないじゃろ!」
黒兵衛さんは、本当に魂だけなのかと思わせるくらいに、堂々としていた。
初めから思っていたことだが、やはり圧倒的な存在感と威風堂々たる態度。それは、自分の身に起こること全てを楽しみに変換し、あるがままを楽しむ姿勢そのものが成せるものだったのだ。
「じゃがの、嬢ちゃん」
観覧車が、ゆっくりと頂点に差しかかり夕日が一番入り込んでくる高さに来た頃、黒兵衛さんがポツリと告げた。
「これは、わしも人から教わった生き方なんじゃよ」
「えっ……」
意外な一言に、私は戸惑ってしまう。
そして、続く一言に、私は完全に言葉を失ってしまった。
「それはな、嬢ちゃん、あんたに教わったことなんじゃよ」
私は、黒兵衛さんに、かつて会っている……?
まったく記憶にない。
「どうやら、嬢ちゃんは忘れとるようじゃな。わしは初めて会った時に気付いておったんじゃがのぅ。どれ、こうすれば思い出すかの」
言って、狭い観覧車の中で黒兵衛さんは、軽々と身を躍らせて、反対側に座っている私の膝にその身を落ち着ける。
「――っ!?」
「どうじゃ、思い出さんかの」
私を、私の膝の上で丸くなってこちらを見上げている黒猫の琥珀色の二つの目がじっと見つめる。
あれ、この感覚は――
昔、どこかで――
「あなた……もしかして、クロ……なの?」
生前、近所の公園に一匹の猫が捨てられていた。
あれは、まだ小学校低学年だった頃のことだ。
毎日近所のノラ猫と喧嘩していたらしく、真っ黒な毛並みはボロボロで、時には所々剥げていたり、ひどい時には血がついていたりした。
動物が好きだった私は、毎日学校の帰りに公園に行っては、クロと遊んでいた。
食べるのが遅くて、友達と遊びたいからランドセルに隠したパンや、苦手だった牛乳をクロに上げたり、家にあったボールをこっそりもってきて遊んだりした。
しかし、クロは誰かに貰われていったのか、ある日私がいつものように公園に行くと、そこにクロの姿もクロが寝床にしていた段ボールもなかった。あの日の夜に一晩中泣きあかしたことを、私は今になってようやく思い出した。
「本当に、クロ……なの?」
「そうじゃの、嬢ちゃんにはクロと呼ばれとったの。あれから、瀬古内さんの家に拾われて、黒兵衛なんて立派な名前まで貰ったよ。じゃが、わしは嬢ちゃんと過ごした数日間の事を忘れることはできんかった。じゃから、こうして長生きして、寿命なんてとっくに過ぎても生き続けて妖猫になったんじゃ」
黒兵衛――クロは、ずっと私を覚えていてくれたのだ。
たった、数日過ごしただけの私を。猫とは言え、資料にあった98歳は既に15年以上、本当に長寿だったのだ。
それも、私の為とクロは言う。
「嬢ちゃん、いんや、瑠璃ちゃん。アンタは毎日わしのところにきてわしに話を聞かせてくれたの。あのときのわしは、飼い主から捨てられて毎日喧嘩に明け暮れ取った。若い時じゃからの、死ぬかもしれんやんちゃもしたし、人間なんてちっとも信じられんかった。猫としての人生なんて、本当につまらんと思っとった。そんなわしには、瑠璃ちゃんは太陽みたいじゃった」
太陽、とクロは私を指して言う。
夕日が、クロと私を包む。観覧車は、もう少しで一周してしまう。
「毎日、わしに学校であった事や、家であったことを楽しそうに話してくれるのを、わしはずっと見ておった。嬉しかったことや楽しかったことはもちろん、お母さんに怒られたことや、テストの点数が悪かったことも、瑠璃ちゃんは本当に楽しそうにわしにはなしてくれた」
当の瑠璃ちゃんは覚えとらんようじゃがの。
言って、長い髭をいじりながらクロは続ける。
「それを見た時、わしは思った。この子は毎日を『楽しむ』天才じゃと。わしも、こんなふうにしていられたら、このつまらなくて辛い毎日も、世界も、変わっていくんじゃないかとまで思ったわ。それからすぐ、わしは瀬古内さんに貰われたんじゃが、毎日起こることから逃げずに、むしろそいつを楽しむようにしとったら、ほれ、この通り年を取っても白髪一本生えんわ!」
ガッハッハ、とクロは大口を開けて笑う。
本当に、幸せそうに、笑う。
その、幸せの根底に、自分がいるのだと、笑って言う。
「クロ……ごめんね。私、クロのこと今まで忘れていて――」
クロの笑顔と対照的に、私は涙が出そうになる。
大事な記憶を忘却してしまっていたことと、クロに顔を向けることのできないくらい変わってしまった自分が、ちっぽけで、みじめで。
「本当に、ごめんなさい」
すると、クロは不思議そうに私を見上げて言った。
「何を言っとるんじゃ。瑠璃ちゃんは、わしの知っとる瑠璃ちゃんのまんまじゃよ」
「――えっ?」
クロのあったかい身体に触れながら、感極まって涙を浮かべていた私に、クロは優しく声をかけてくる。
「瑠璃ちゃんは、今日一日わしとおって楽しかったんじゃろう。街が今までよりもっと色鮮やかになっていくのを、感じておったんじゃろう。それにほれ、わしのために泣いてくれとる。その涙は、毎日を楽しんでおるものにしか、流せん涙じゃとわしは思うぞ」
言われて、私は観覧車の外を見る。
涙をぬぐって町を見ると、夕日に染められた町並みは、オレンジ色の中にたくさんの色が混じって見えた。今まで何度も見ていた街の景色なのに、すごくカラフルで、すごくあったかい街に見えた。
「わしはの、瑠璃ちゃんにありがとうを伝えたくて、こうして一日付き合わせてしまったんじゃ。『楽しさ』を見つける達人、生きる『楽しさ』を教える天才の瑠璃ちゃんに、わしのような捨て猫に生きる希望を与えてくれた、太陽のようにキラキラした瑠璃ちゃんに、ありがとうと、恩返しをしたかったんじゃ」
わしも男じゃからな、面と向かって言うのは恥ずかしくて、こんな遠回りな方法になってしまったがの。
照れたように前足をペロペロと舐めながら、クロは私の方は見ずにつぶやいた。
「瑠璃ちゃん、今日は本当に楽しかった。そして、あの時は本当にありがとう」
「私の、私の方こそ――」
言葉は、思うより先に出てきた。
「私だって、今日一日でたくさん探検して、本当に楽しかった。すごくワクワクしたし、知らなかったこともいっぱい見れたし、見慣れた景色に絵の具を足したみたいに見え方が変わっていって、幸せの魔法にかかったみたいだった」
思えば、こうしてめいっぱい遊ぶことなんて、今まで無かったように思える。
仕事がオフの日でも、あまり同僚と関わることもなかったし、1人で街をぼーっと浮遊していることが多かった。全てから切り離されて、1人になって、それでやっと自分を実感できた。それが、ずっと続くと思っていたし、それが最良だと思っていた。
クロはそんな私に、「誰かと一緒にいる楽しさ」といういつしか忘れてしまっていた大切な物を思い出させてくれた。かつて、私がクロにそうしたように。時間が経っても消えない、大切な記憶。それが、もう会うことのない2人を巡り合わせた。
なんという、偶然。
ちっちゃなことだけれども、素敵で、キラキラした、奇跡。
「だから――っ、私も、クロにいっぱいいっぱいありがとうを言いたい。ううん、言わなきゃいけない。だって、クロは今日までたくさんのありがとうの気持ちを私に持っていてくれたから。私は、その分までクロにこれからありがとうを言わなきゃ」
そこまで言って、私はふと思う。
気付いてはいけないような、でも、大事な事に。
「バカモン、わしはとっくに死んだ身じゃ。そんなこと、瑠璃ちゃんが一番わかっとるじゃろ。そして、わしの未練――やり残したことはもうやりきった。瑠璃ちゃん、アンタにありがとうを言えた、それだけでわしは満足じゃよ」
死した魂は、一部の例外を除き等しくあの世へと赴き、新たな命へと生まれ変わる。
それが、遥か昔から定められた生命の掟。猫も人間も、金持ちも乞食も関係ない。経ったひとつの決められたルール。
死神である自分にとっては、日常的な、別れの時間。
だけど、だけど。
途端に、私の視界が歪んでいく。
それが目にいっぱい浮かんだ涙であることに、私は初め気付かなかった。
「ダメッ、クロッ、だって、私、まだ……」
言葉がつまって出てこない。
喉の奥がぐっと熱くなって、言葉が出るのを邪魔する。
「瑠璃ちゃん」
クロの声は、穏やかであったかくて、優しかった。
「人の言葉には、重さがあるんじゃよ。それは、同じ言葉を繰り返し紡いだだけ重なっていく重さもあれば、一度きりの言葉に込めた重さもある。じゃがの、その『重さ』はどちらも同じものなんじゃよ」
クロは、私と別れてからの日々の中で抱いてきた「ありがとう」の重さ。
じゃあ、私は?
私ができる「ありがとう」の重さは?
私は、涙をぬぐって、クロに向かってめいっぱいの笑顔を見せた。
夕日に照らされた私の顔は、クロにどう映っているのだろう。その、琥珀色の深い瞳に私はどう描かれているのだろう。
「最高の笑顔じゃよ、瑠璃ちゃん。アンタに会えたわしの人生は、やっぱり最高に『楽しい』人生じゃったよ」
私は、そっとクロを抱き上げて、目の高さまで持ち上げる。
私の顔の目の前に、クロの顔。
立派な髭は、威風堂々とした生きざまを物語っていて、顔のあちこちにはよく見ると、昔の喧嘩のあとだろうか、古傷が残っている。
そして、私の笑顔は、ふたつの琥珀色の瞳にはっきりと映っていた。
「ありがとう、瑠璃ちゃん」
「ありがとう、クロ」
手の中からするっとクロの毛の感触が消え、そこには温かい空気だけが残る。
観覧車が、ちょうど一周したようだ。
係員が扉を開けて待っていた客が乗りこむ。その客と入れ違うようにして、私は夕日を背に観覧車を降りた。もちろん、係員にも客にも私の姿は見えていなかった。
【2010年7月20日】
これが、私の体験した夏の日のお仕事の話よ。
どう、面白かったかしら?
あとにも先にも、私が動物の魂を担当したことは無かったけれど、どうやら本社の意向で人間以外にも迷える魂が増えているから、それを救うという新業務も増えてきているようね。
時間と言うのは、私たち死神にとっては忘れてしまいがちなもの。
私たちは、死の瞬間で全ての時間が止まってしまっているから、時間の流れを感じることはあまりないのだけど、こういうケースでは、記憶というのは時間が経っても褪せないものなのだと感じてしまうわね。
人の思いや記憶は、そう考えると、人の世にあって、いつまでも変わらないものなのかもしれないわ。
もちろん、それを実感できる時の方が人生というのは少ないものなのだけれど。それを意識しながら生きていくだけで、街や人の見え方が変わっていくのかもしれない。私は、あの仕事を通してそう感じた。
もっとも、既に死した魂になったあなたにこれを言っても、どうしようもないことなのかもしれないけれどね。ふふ。
すっかり長く話してしまったわ。もう、あなたも落ち着いたでしょう。さあ、自分の足で立って、しっかりと歩きなさい。そして、覚悟しなさい。新たな命を迎えた時、その瞬間からあなたの『楽しい』人生は始まっているのだから。
では、ごきげんよう。
また、来世が終わった後に縁があったら会いましょう。
あとがき
言いたいことがぜんぶぐちゃぐちゃで、荒削りも甚だしいくらいの突貫小説でしたが、楽しんでいただけたでしょうか。
瑠璃は2008年の祭りの際に登場させたオリジナルの死神でしたが、もう一度この子を主役にした話を書きたいと思っていたので、もはや原作と関係なくなってしまった申し訳なさと共に書きました。本当は、もう少し死神っぽいことをさせてあげたり、耕太ややよいさんとのからみも用意したかったんですが、そこは心残りです。でも、この子には仕事を忘れて遊んで欲しかったし、人から感謝されるような存在なんだということを知って欲しかったので、こんな話になりました。
もう完全に親ばか状態ですが、ここまで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。
未乃さん、誕生日おめでとうございます。そして、ご結婚おめでとうございます。
2010.7.20 litoruman